金沢大学映画研究会

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『鬼滅の刃 無限列車編』マッチョなテーゼ/弱者の抱擁(葉入くらむ)

☆最新作品レビュー
鬼滅の刃 無限列車編』マッチョなテーゼ/弱者の抱擁
                        

週刊少年ジャンプで連載された大人気漫画『鬼滅の刃』の劇場版。原作の単行本7~8巻にあたる、「無限列車編」をスクリーンで見ることができる。本作では冒頭に産屋敷が鬼殺隊の墓を訪れるシーンが流れ、隊員(煉獄)の死が暗示され物語が始まり、無限列車での下弦の一 魘夢(えんむ)との戦いと上弦の三 猗窩座(あかざ)と炎柱 煉獄の対決、煉獄の死までを描く。


【“誘惑する存在”としての鬼】
 無限列車編では主に二体の鬼が登場する。人に夢を見せる能力を持つ魘夢と、驚異の再生力と戦闘力をもつ猗窩座だ。前者は精神攻撃・洗脳系の鬼であり、後者は武闘派なので両者とも戦闘スタイルは異なるが、どちらも共通して人の生き方を否定し堕落させようと誘惑する。
 魘夢は幸せな夢を見せることを条件として人間側の協力者を用意した。深刻な現実から目を背けて夢の世界で眠らせることで炭治郎たちや協力者の少年らを支配しようとする。
 強さを追求する鬼である猗窩座は煉獄の強さに一目置いていて、更に強くなるために不死身の存在である鬼にならないかと彼を勧誘する。
 失った家族との日々を夢の中で再現してくれる。不死身で老いない肉体を手に入れる。二体の鬼が提示する報酬はどちらも蠱惑的だ。現実の話に置き換えてみるならば、情報弱者をカモにして莫大な財産を手に入れるだとかがこれに当たるだろう。(最近、YouTube見てるとこんな感じの広告ばっか流れる)
 この誘惑を炭治郎、煉獄らはいかに断ち切るのか。これが本作のテーマのひとつである。


【鬼の誘惑を断ち切る術】
 魘夢の幻術を解くために炭治郎は夢の中で自分の首を切り落とす。鬼の誘惑を断ち切ることは、まさに自傷行為なのだ。猗窩座の攻撃を受けて腹部に穴が開いても鬼になることを拒んだ煉獄は、鬼にならないという自分のポリシーを全うしたがために死んでしまう。
 二人は、その自傷をいとわない強靭な精神力で誘惑を跳ねのけた。幻術にかかるたびに何度も自分の首を切る炭治郎を魘夢は「このガキはまともじゃない」と評するし、猗窩座は致命傷を負っても鬼になろうとしない煉獄に、「死んでしまうぞ杏寿郎 鬼になれ!鬼になるといえ!」と敵でありながら彼の身を案じる。鬼たちには理解できない自傷的な行為、それを実行できるだけの精神力があれば鬼の誘惑は断ち切れる、ということだろうか。だが、これはずいぶん武士道的というかマッチョなテーゼではないだろうか。
 それほど禁欲的に自分の生き方やポリシー(幸せな幻覚にとらわれずに現実を生きる、鬼にならない)を通すことは僕にはできそうにない。魘夢に幸せな夢を見せてほしいし、鬼にならなきゃ死ぬんだったら鬼になってしまうだろう。そもそも鬼の誘惑に負けることが悪いことなのか?炭治郎たちが異常者なのでは?「いつまでもそんなことに拘っていないで 日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」と。そんな強靭な精神力を持たない人は、どのようにして鬼の誘惑を断ち切るか。
 メインキャラクターのなかで(少なくとも表面的には)胆力のなさそうな善逸は、彼が特殊な「無意識領域」を持っているがゆえに、夢の中の侵入者を排除できた。(夢の世界の外側、「無意識領域」にある「精神の核」を破壊されるとその夢の主は廃人になってしまう。魘夢は協力者の少年らを夢の世界に送り込み「精神の核」を壊そうとした。)
 そもそも彼は夢の世界から自力で覚醒しない。だから彼は魘夢の見せる夢の誘惑を断ち切っていない。伊之助についても同様であり、彼も特殊なケースだろう。
 唯一ふつうの精神力で魘夢の誘惑を断ち切った登場人物として結核の少年が挙げられる。彼は作中世界(大正時代の日本)で不治の病にあたる結核を患い、人生に絶望して魘夢の手下となった。しかし炭治郎の「無意識領域」に入ったことで無意識空間を形作る炭治郎の優しさに触れ、希望を取り戻し魘夢に協力するのをやめた。

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参考:単行本七巻より、結核の少年


 彼を救ったのは炭治郎の優しさ(すなわち強さ)である。彼がもし善逸や伊之助の夢のなかに入り込んでいたら、彼は救われたのだろうか。善逸や伊之助の夢に入った少年らのように、ただ「精神の核」を壊す任務を阻害されて、魘夢から報酬を貰えなくなることに怒るだけではないだろうか。
 彼が魘夢の誘惑を断ち切れたのは、彼の決断や思考の転換などではない。ふつうの精神力を持った人間は、強靭な精神力と徳の高い精神を持つ炭治郎のような人物に出会わなければ救われない。「弱い者を強い者が守る」ことはこの作品のもう一つのテーマであるが、やはりどこか突き放されたような厳しさを感じる。弱い者では自分や弱い者を守れないのか。しかしこの映画は、「強くあれ」というマッチョなテーゼを叩きつけて終わるわけではない。


【母性的なまなざし】
 作画について印象的なシーンがある。
 物語の終盤。力尽きた煉獄に代わって炭治郎たちは猗窩座のとどめを刺そうとするが、間一髪逃してしまう。炭治郎は逃げる猗窩座に刀を投げつけ「卑怯者!お前なんかより 煉獄さんの方がずっと凄いんだ! 強いんだ!」と叫びながら号泣してしまう。煉獄の死の悲しみに暮れ、自分たちの能力が及ばなかったことについて「悔しいなぁ なにか一つできるようになっても またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ」とこぼし、炭治郎たちが泣く感動的なシーンだ。
 たしかに感動的なのだが、ここの炭治郎たちが妙に“かわいく”描かれているように感じた。涙が大粒でまるまるとしていてジブリっぽいような印象を受けた。伊之助との「お前も泣いてるじゃん.......」の掛け合いもディフォルメされていた。
 煉獄の死はシリアスだし、この映画の魅せ場なのだからもっとカッコよく泣かせても良かったんじゃないか。涙する彼らが“男泣き”というより、悔しさと悲しさでわんわんと泣く男の子のように見えたのはなぜだろう。思うにこのシーンには、“母親から見た息子”のようなフィルターがかけられている。ここでは母性的なまなざしで自分の実力不足と先輩の死に向き合う炭治郎たちを描いている。
 この“まなざし”を理解するために作中に登場する母、そして父の描かれ方に注意してみよう。この映画では父が息子に顔を向ける描写が異常にすくない。煉獄の父が夢の中で回想されるときに寝ころびながら背を向けている場面が印象的だ。「日の呼吸」へのコンプレックスで歪んでしまった煉獄の父ならまだしも、炭治郎の父が魘夢の幻術を解くヒントを与えたときも、やはり息子に対して背を向け、「ヒノカミ神楽」を舞う姿を回想されるときには顔に覆面をつけている。

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(参考:単行本7巻より,上の画像が煉獄の父、下の画像が炭治郎の父)


 それに対して両者の母は息子に向き合う構図が多い。煉獄が死ぬ間際に現れた彼の母(彼が幼い時に亡くなっている)は、息子の最後をじっと看取る。炭治郎の母についても息子のことをよく見ていて、この世界が夢だと察した彼の異変にいちはやく気づく。
 これら父/母の〈まなざしを向けられる/向ける〉の二項関係がキャラクターの所作〈背を向ける/向かい合い、見つめる〉のような視覚的な表層にまで還元されているのだ。
 炭治郎たちが泣くシーンが“かわいく”、男の子が泣いている姿に見えるのは、彼らを見つめる“まなざし”が、まさに煉獄の母のような、母性的なニュアンスを帯びているからに他ならない。
 これを踏まえて総括してみると、鬼の誘惑に対しては“己のポリシーを曲げるな、弱きものを守るために強くあれ”というストイックでマッチョな父性的なテーゼを提示するとともに、泣く炭治郎たちに象徴される、弱者を母性的なまなざしで見守る構造になっている。もちろん、母性的なまなざしは父性的なテーゼに対するカウンターではなく、弱さの受容と、強くなろうと努力する者を応援するような位置づけである。「弱い者を守るのは強い者の責務」であることを煉獄に教えたのは彼の父ではなく母親だ。
 鬼殺隊の兄弟じみた掛け合いや、父・母の描かれ方など本作は(旧時代的な)“家族”の構造を持った作品なのだと思う。そして炎のような苛烈さを感じさせつつも、どこか暖かい余韻が残るのは、マッチョなテーゼと弱者の抱擁、ふたつの側面を内包しているからではないだろうか。

🈡

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